福田金属箔粉工業・梶田 治

電子機器の深部に振るう技、300年の伝統継承者
(第1回「ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞受賞者)
2007年3月7日 水曜日 神戸 真 business.nikkeibp.co.jp

 創業1700(元禄13)年という伝統ある企業が、現代の、それも最先端工業分野で存在感を表している。
 梶田治さんが常務を務める京都の福田金属箔粉工業は、江戸時代から金箔銀箔、金粉銀粉といった金属加工を生業としてきた。
 用途は金屏風や仏壇・仏具、あるいは美術工芸品だったが、明治期に入ってからは真鍮粉の製造など、より幅広いマーケットへの対応を始める。戦後には車の軸受けに使用される金属材料、プリント基板用の銅箔等々を通じて、勃興期の自動車産業やエレクトロニクス分野にも参入した。さらに身近なところではカップめんのフタや、錠剤のパッケージのアルミ箔など。巧みに時代の波をとらえてきたといえる。
 とはいえ、開発畑の梶田さんがその状況に100%満足していたわけではない。自分たちが提供しているのはあくまで原材料。製品化するのは顧客企業である。確かに安定した商売ではあるし、その慎重な姿勢が、企業として長く続いてきた理由でもあるのだろう。しかし、「伝統を守る」ということは「冒険をしない」ということなのだろうか? 梶田さんはそう自問していた。

会社未公認のプロジェクトチームで、開発がスタート
 1980年代後半になって、梶田さんに啓示を与える情報が海の向こうからもたらされた。当時、世界のコンピューター産業の頂点にあった米国で、電磁波障害による電子機器の誤作動や、人体への悪影響が問題になっているというのだ。
 電磁波障害を防ぐには、導電性に優れた金属で電子機器の内側を覆ってしまえばいい。やり方は様々あるが、性能とコストが折り合うのは、導電性の金属粉を塗料に混ぜて筐体の内側に吹き付けるという手法だった。素材としては銀がベストなのだが、いかんせん高価である。そこで使われていたのが安価なニッケル。しかし、ニッケルは肝心の電磁波シールド性能が低い。もっと性能が良く、コストも妥当な金属素材はないか。それが米国コンピューター業界の潜在的なニーズだった。
 この情報に触発された梶田さんは、会社に新製品開発プロジェクトチームの発足を提案した。だが、老舗企業にとってそれはいささか冒険的すぎる試みだったようで、ゴーサインは出なかった。そこで梶田さんは、研究、製造、評価の各部門から志願者を募り、会社未公認のプロジェクトチームを立ち上げたのである。

「銅」が持つ致命的な欠点「錆」
 新しい素材は、すぐに決まった。銅である。銀には劣るものの、ニッケルとは比べ物にならないくらい導電性が良い。では、なぜこれまで使われてこなかったのか。それは銅が酸化しやすく、錆びるとたちまち導電性が落ちてしまうという、致命的な欠点を持っていたからだ。逆にその一点さえ解決すれば、性能面でもコスト面でも満足のいくものができると梶田さんは考えた。
 一口に金属粉といっても、用途や製法によってその形状・大きさは多種多様。導電性を上げるには、金属粉同士のからみが良い形状が望ましい。製造方法には、電気分解法が選ばれた。電解銅粉は戦前、同社が日本で初めて量産化に成功した技術。形状操作の技術も手のうちにある。1カ月ほどで細かな突起を持った樹枝状の銅粉をつくり上げた。
 だが、電解銅粉は硫酸銅溶液槽の中で銅を析出するため、表面にどうしても水分が残ってしまう。これが錆を呼ぶ。この水を化学反応で別の物質にしてしまうような表面処理を、銅粉の一片一片にくまなく施す必要があった。
 明治期から、同社には真鍮粉を油脂でコーティングするという表面処理技術があった。しかし、酸化を防ぎ美観を保つための表面処理を施すと、導電性は逆に阻害されてしまう。さらにアクリル樹脂と混ぜて塗料にするためには、濡れ性(樹脂とのなじみ具合)も良くしなければいけない。
 銅の優れた導電性を損なうことなく、表面の水分を除去し、なおかつ濡れ性を確保できる添加物を探す必要があった。

繰り返される実験と、量産化に向けた忍耐の日々
 会社未公認なので、開発は勤務時間外。スタッフは毎日のように、夜を徹して表面処理を施しては評価にかけた。結果が出るのは朝。その内容を分析して、夜にはまた違う処理を試すことを繰り返す。
 最終的にチタネート、アルミネートというカップリング剤に行き着いた。しかし、初期特性が良くても、長期にわたる信頼性がなければ商品にはならない。その銅粉入り塗料を塗ったサンプルを評価試験に回し、温度65℃、湿度95%の環境で塗膜の性能が劣化しないか、1年間テストし続けた。
 添加剤の配合を変えるなどして、何十種類もつくったサンプルがひとつずつ消えてゆき、最終的に残ったのは2〜3点だった。
 最後の難関は量産技術。はたして大量生産でも、複雑な樹枝状の粒子すべてに均一にコーティングができるのか? もし一部でも漏れがあれば、そこから塗膜は劣化する。かといって、それを恐れて強く混ぜすぎると、今度は粒子の繊細な形状が壊れてしまう。しかも一度表面処理をしてしまったら、失敗しても銅粉はリサイクルできず、大量の廃棄物となる。
 それは会社にとっての損失であるばかりか、エレクトロニクスの世界で銅粉が完全に見限られることを意味した。
 問題解決のため、製造現場のベテランがその経験と知恵を絞ってくれた。専用の機械を導入し、銅粉とカップリング剤を分散させながら混ぜ合わせることで、量産向けの表面処理技術はついに確立されたのである。

米国で売れれば、日本にも広まるはず
 売り込みは、まず米国から。それは、当初から梶田さんが考えていた戦略だった。日本の企業に持ち込んでも、まず「実績はあるのか」という話になり、勇気ある最初のユーザーになってくれる確率は低い。その点、米国企業は新たなトライには理解がある。しかも、米国ではFCC連邦通信委員会)による法的な電磁波規制がすでに存在していた。日本では自主規制。電磁波シールドに関する企業の切迫度がまるで違った。
 ちなみに米国では、「偶然にも」この導電塗料用銅粉の商品名が、FCC 規制と同じ「FCC(Fukuda Conductive Copper) 」であったことから、思いがけず認知度は高かったという。
 梶田さんの思惑どおり、完成した銅粉を使った導電塗料は、米国大手コンピューターメーカーが相次いで採用。その成果は学会でも発表されるほどだった。そしてこれも思惑どおり、米国での評価を受けて、日本企業も右にならったのである。さらに携帯電話の普及が、この銅粉の販路拡大に大きく寄与した。
 その後、電子回路の高密度化が進んだことで、より高い電磁波シールド性能が求められるようになり、コンピューターや携帯電話などの高性能な電子機器には銀が使用されるようになった。
 しかし、導電塗料用銅粉は役割を終えたわけではない。プリント基板用の塗料や、電子機器の熱問題に対処する絶縁放熱素材などへ、むしろ用途を広げた。また、この成功が「銅の可能性」を金属マテリアル業界全体に再認識させた功績も、忘れるべきではない。

伝統とは無縁の世界で、伝統を生かせ
伝統技術を生かした新製品開発に対する梶田さんの情熱は、衰えることを知らない。2000年に販売を開始した人工関節用チタンビーズもそのひとつである。人工関節の、骨との接合面に微細なチタンの真球をコーティングする。それによって球と球の隙間に新たに成長した骨細胞が入り込み、人工関節と骨が一体化する足がかりとなるのである。今や同社は医療分野からも期待される企業となった。
 こうした新しい製品分野、開発テーマの発見に欠かせないのが、「人との出会い」であると梶田さんはいう。伝統技術にこだわりすぎると、とかく視野狭窄に陥りがちになる。人間関係も、社内や既知の業界の人物に限られてしまう。
 だが、伝統を継承し、開発に携わる者こそ、異業種の人や、それまで自分とは全く縁がないと思っていた人たちと知り合い、交流すべきなのだ。啓示は、そんな思いがけないところからやってくる。正しく積み重ねられ、継承されてきた伝統は、その時、熟しきった種子を弾けさせるのだ。