戦中のこと

 午後に叔父から話を聞く。
 ゼロ戦に乗りたくて、予科練ではなく、清水市にあった航空関係の予備隊を目指したそう。(叔父は、皆から1年早く教えてもらったからと謙遜するが、祖父から手ほどきを受けていたので、剣道は強く、授業では10人抜きなどをしたそう。)当初は非常に倍率は高かったが、その頃(昭和19年3月)は、一次試験さえ通れれば、誰でも入れる感じになっていたとのこと。二次試験は、何日かかけて、面接などもあったそうである。一次試験を通って、その受験票を示せば、汽車に乗れたとのことである。