メモ/中世そのままの教会堂で、一般市民向けに最新の素粒子物理学の講義

「伊東 乾の『常識の源流探訪』」(「日本の鎖国病はいつ治るか?」 2008年12月
11日)より

ちょうど今、私の本来の専門である音楽の調査・研究のため、出張先のイタリアで
この原稿を書いています。現在は「ピサの斜塔」で知られるピサから送稿していま
すが、先週訪ねた中世の教会に、驚くべき張り紙がしてあるのを見つけました。
 私はヴァイオリンの名匠ストラディヴァリで知られる北イタリアの都市クレモナ
にあるパヴィア大学クレモナ校音楽学部と共同研究をしています。歴史的教会堂内
での儀式と奏楽の音響の関係、特にパイプオルガンの特徴や、それを教会のどの位
置に置くか、置き場所によってどのような変化が出てくるか、といった内容の
フィールドワークをしているのです。こうした話題は書籍で出す予定ですが、年が
明けましたらこのコラムでもご紹介できればと思っています。
 さて、そんな中で、約束の時間に現地のオルガニストに車で迎えに来てもらうの
を、クレモナ駅近くのサン・ルーカ教会の脇で待っていたのですが、何気なく見た
境界の通用扉に、明らかに「そぐわない文字」があるのが目に飛び込んできまし
た。
 「…CERN」、欧州合同原子核研究機関と同じ名前のアルファベットに読めます。ま
さか、教会で原子核…? でも確かに見えたように思ったので、よく読んでみたとこ
ろ、本当に最先端の素粒子物理学の話題でした。
 告知には「12月5日の夕方5時半から、素粒子物理学者のエヴァンドロ・ロー
ディ・リッツィーニ教授を迎えてLHCの物理の話をします」とあります。
 このコラムでも南部、小林・益川各教授と関連して触れたLHC(ラージ・ハドロ
ン・コライダー)の物理について、週末の金曜夕方に、教会で一般市民向けの講義
をするというお知らせだったのです。大変感心しました。
 先に今年のノーベル物理学賞をカビボ、ヨナ・ラシーニオの2教授が受け損なっ
て、イタリア物理学界は全く納得が行かないという話題を紹介しましたが、ガリ
イやレオナルド・ダ・ヴィンチ以来ルネサンスの故地である北イタリアは、市民の
科学に対する「常識」の深さがぜんぜん違っていて、本当に感心しました。普通の
町のおばあさんが、物質の重さ(質量)の起源や自発的対称性の破れの話を聞きに
地元の教会にやってくる。たかだか100年か150年の日本の文明開化では、とても歯
が立たないのではないかと思われました。
 ちなみにイタリアの大学では、島津製作所の脳機能可視化技術など新しい科学技
術を使って、伝統的な音楽の問題を調べる、私たちのグループの研究を非常に自然
に受け入れてもらえます。
 日本ではこんなこと絶対にありません。音楽学関係者は非常に「文系」に偏りや
すいか、あるいは若い人などテクノロジーの話題だけになってしまいやすく、また
理工系の学者さんの多くは厳密な音楽の研究というものに、そもそも価値を見いだ
してくれません。「その経済効果は?」なんて聞かれるのが、東大あたりでしかる
べきポジションにいる人の反応です。
 こうした違いを痛感するにつけ、やはり日本は後発先進国なのだと思わないわけ
にはいきませんでした。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?ST=print