田島隆より
「  野球全般が低迷しているのかというと、案外そんなこともない。
 甲子園の高校野球は相変わらず高視聴率だし、WBCのような国際大会は、必ず一定の注目を集める。
  なるほど。
 文脈(コンテクスト→状況や関係)に依存しない短期決戦のゲーム(コンテント→具体的な情報)は、支持をうしなっていないわけだ。
 実はサッカー界でも状況は同じだ。
 文脈(連ドラ的な展開)依存型のJリーグの人気は低迷し、対照的に、コンテントが明確な代表戦は、変わらず高い人気を集めている。
 いずれにせよ、現代は、昭和の時代とくらべて、ハイ・コンテクストな(文脈依存性の高い)コミュニケーションが成り立ちにくくなっている。

 20年ほど前、同年輩の編集者から聞いた話を紹介する。
・帰省するとそのタイミングで、地元の小中学校のクラス会が開催される。
・クラス会では、大学に進んだ者と進まなかった者、上京した者と地元に残った者、結婚している人間としていない人間というふうに立場が分かれていて、共通の話題が見つけにくい。
・で、野球の話か、クルマの話をすることになる。この二つの話題ならたいていの男は参加できる。
・というわけで、ここ数年、帰省する度に、「スカイラインの限界時のアンダーステア傾向」だとか、「L20型エンジンの吹き上がりの悪さ」みたいな話ばっかりしてるんです。バカみたいでしょ?
 思えば、この段階で、われわれは、既に、かなりバラけはじめていた。同じ土地で生まれ育ったはずの仲間なのに、階層別に、学歴別に、居住区域別に、それぞれ異なった嗜好を身につけて、互いにコミュニケーションの取りにくい人間同士になってしまっていたわけだ
 それでも、1990年代ぐらいまでは、野球とクルマについてだけは、かろうじて文脈が共有されていた。だからこそ、90年代の30男は、顔を合わせる度にクルマの話と野球の話を繰り返していたのである。
 おそらく、現在の20代、30代の若い男たちは、クルマや野球では、間が持たないと思う。
 彼らがモノを知らないというのではない。
 彼らの知識や情報は、われわれが若かった時代より、より徹底的に多様化していて、それこそ「アノミー(無規範、無規則)」みたいなことになっているはずなのだ。

  結論を述べる。
 バレンティンの新記録が騒がれなくなったのは、その真価を理解できる人間が滅びようとしているからだ。それほど、われら日本人の常識や教養は、多様化し、原子化し、個別化し、孤立している。
 もしかしたら、震災以来、なにかにつけて「一体感」「愛国心」が強調されるようになったのは、われわれが、あまりにもバラけてしまったことの反作用であるのかもしれない。
 野球なり、大ヒットドラマなり、クルマ趣味なり、ブランドなり、同世代の何割かを占める人間の心をとらえるおおきな枠組みの「文脈」が生き残っているのであれば、われわれは、その中規模な物語を援用しながら、それぞれの孤独を癒やせたはずだ。
 が、もはや「文脈」は、限りなく小さくなっている。
 と、日本をまるごとひとつの文脈で満たすみたいな、巨大な物語が要請されるに至る。
 「ひとつになろう」
 「絆」
 「ニッポンには夢の力が必要だ」
 「ニッポンチャチャチャ」
 「オリンピックの顔と顔」

日経ビジネスオンライン 2013年9月13日(金)